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ワット・パイロン・ウアの案内板です。この寺は1926年に建てられたとあり、まだ新しいお寺です。


ワット・パイロン・ウアは、タイ中部にあるスパンブリー県(アユタヤの隣)にあります。



ワット・パイロン・ウアの名前が書かれた案内板です。


ワット・パイロン・ウアは、タイ観光のガイドブックには、まず載ってないと思います。



ワット・パイロン・ウアの境内の案内図です。





これは境内から眺めた山門です。両側には象が配置されています。





山門の正面の真下から撮ったところです。無粋な電線がみえますが、タイではよくある光景です。





山門の象の片方です。





もう一方の象です。タイでは山門に象が配置されていることは珍しいことではありません。





バンコクにあるワット・フア・ランポーンの山門を境内から眺めたところです。はやり象がいます。





ワット・パイロン・ウアの山門の正面にある建物です。山門は幾つもあります。





仏教の象徴である法輪を引きながら前進する僧侶と在家達の逞しい姿です。





それを横から眺めたところです。法輪を回している力強い姿です。





ここでは大変大きな仏様の座像がみられます。





ここへたどり着いたのは夕方でしたので、あまりいい撮影環境ではありませんでした。





大仏様の真下に停まっている車と比較すると、この大仏様の大きさがわかります。





大仏様に近づいて真下から眺めたところです。仰ぎ見る者を見つめていてくださるようにみえます。





大仏様の右下には、ハスの蕾を模した飾りのついた銅鑼を吊り下げたものがあります。





大仏様の後姿です。後ろには沢山の仏の座像が鎮座しています。





大仏様を横から眺めたところです。





少し離れて眺めたところです。





実際に眺めますと、本当に大きいですね。まさに大仏様です。





境内には沢山の木々が植えられています。歴史の浅いお寺ですので巨木はありません。





境内の建物の間から眺めた大仏様です。





そのアップです。





木々の間から撮った大仏様です。





大仏様のお顔のアップです。





大仏様を斜め後ろから撮ったものです。





大仏様の後ろには、夥しい数の仏像があるのですが、それは続編でご覧いただきます。





大仏様の後ろ姿から、肘のところに支えのような棒があることがわかります。





後ろ姿をさらにアップしたところです。





大仏様の螺髪をご覧ください。





大仏様の横には、インドのブッダガヤー(釈尊成道の聖地)の塔に似せて作った塔が建っています。





大塔と大仏様の位置関係にご注目ください。





見る角度によって両者の位置関係が変わってみえます。





この角度ですと横に並んで見えます。





インド風の建物の横から眺めた光景です。





タイのお寺には写真のように大きな銅鑼が吊り下げてある場合があります。大変大きなものです。





大きな銅鑼はタイの寺院ではしばしば見かけます。上部の飾りは、ハスの蕾を模したものです。





チェンマイにある ワット・ドイ・ステープ にある銅鑼です。建物の真ん中の黒いのがそうです。





チェンマイにある ワット・ハリプンチャイ にある銅鑼です。世界で一番大きなものだそうです。





世界最大の銅鑼を側面から撮ったものです。





ワット・パイロン・ウアへ戻って、大塔の周囲の様子です。





大塔の周りには傘を持った僧侶の像があります。托鉢の鉢を背負い、水差しを持っています。





大塔と横の小塔の様子です。僧侶の像も写っています。





この写真はインドの ブッダガヤー にあるマハーボディー寺院の仏塔です。


資料映像



マハーボディー寺院の仏塔の中に安置された釈尊の座像です。


資料映像



建物の上にブッダガヤーの大塔に似せて造られた結集(けつじゅう)が行われた ワット・チェット・ヨート です。


1544年に建てられたチェンマイのこの寺で、当時の王テイロカラートによって結集が行われたと伝えられています。




結集 ( けつじゅう ) とは

釈尊ご在世の時代には、 教えは文字化されませんでした。 ですから釈尊の教えは、弟子から弟子へと口伝によって引き

継がれていったのです。その後既にあった文字で結集
けつじゅうという、釈尊の教えを文字化する作業が数回に渡って

行われるという時を迎えるのです。 ですから今日、釈尊の教えが私たちのところまで辿り着いていることは、 まさに「初転

法輪」があり、釈尊から聞いたままをそのまま伝えた弟子たちの偉業もあったのです。 仏教徒にとっては重要なことです。


注: 当時は既にジャイナ教・ベーダ教・マハーラーバタ等の典籍があったことは確かです。


上記の説明文等は、関連するページでダブっていますので、ご承知置きください。 浅学菲才の身を省みず書いています。



この位置からですと、大仏様と大塔の位置関係は、前の写真と異なるように見えます。





木々の間から眺めた大塔です。





さらにアップした光景です。左側に大仏様のお顔が見えます。





再び大塔の遠景です。塔の側面に掘られた飾りにご注目ください。黄色の花の木はタイの国花です。





アップした写真から、塔の右下部をご覧ください。タイの国花の和名は ナンバンサイカチ です。





これがタイの国花で、タイでは「 ラーチャブルック 」と呼ばれ、藤の花のように垂れがって咲きます。


大木に咲くこの花 ( ラーチャブルック ) は、まさに国花に相応しく、見応えがあります。



大塔の真下から眺めたところです。





ちょっと傾いてしまいましたが、大塔の下部の様子です。





境内にはこんな建物もあります。





ここからはゴータマ・シッダールタ ( 後の釈尊 ) のご一生の概略を記します。


ゴータマ・シッダールタは、マーヤー夫人が出産のために故郷へ戻る途中、今のネパール

のルンビニーの苑でお生まれになられました。そして釈迦族の暮らしていたところはカピラ

バストというところですが、 現在のところそこがどこにあったかは、 はっきりしていません。



お釈迦さまがお生まれになられて、七歩歩んだとされる光景です。 タイ各地でみる ことができます。


ゴータマ・シッダールタの ” ゴー ” とは牝牛の意味で、 ” タマ ” というのは素晴らしいという意味です。



ゴータマ・シッダールタ誕生の様子を位置を変えて撮ったものです。


七歩歩んだとされることの意味は、 六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を超えるということです。

生まれたばかりの赤ん坊が、 すぐに歩む訳がないじゃあないかということとは意味が違うのです。



日本のお寺でお釈迦様のご誕生を祝う花祭りのお荘厳です。





お釈迦様がご誕生になられた時のお姿を写したものに甘茶を掛けてご誕生を祝います。





お生まれになってすぐに七歩歩まれ、 「 天上天下唯我独尊 」 とおしゃったとされるお姿です。


柄杓が写っていますが、これで器の底にある甘茶をお釈迦様の像へお掛けしてご誕生を祝います。



ワット・プラノーンチャクシー・ウォラウイハーンのお寺のゴータマ・シッダールタ誕生の様子です。





位置を変えて撮ったところの様子です。今回は衣服をまとっていました。


上記二枚の写真は 他でも掲載されています ので、ご承知置きください。



ワット・パイロン・ウアの本堂の壁画にあったゴータマ・シッダールタ (後の釈尊) の誕生図です。


ゴータマ・シッダールターは、 父のスッドーダナ(浄飯王)と母のマーヤー夫人の間にできた嫡子です。スッダは ”浄

い” という意味で、 ドーダナは ”米の飯” のことです。 それで経典では浄飯王(じょうぼんのう)と呼ばれるのです。

これで釈迦族が定住して米作を行っていた民族だということがわかります。米作は定住でなければできませんから。



そのアップです。釈尊はお母さんの マーヤー(麻耶)夫人 の脇の下から生まれたという伝説があります。


そんなことはないと思われるでしょうが、これは釈尊がクシャトリアの階級に生まれたことを意味します。



本堂内にあった別のゴータマ・シッダールタの誕生図です。


マーヤー夫人は、王子を産んだ一週間後に亡くなり、 王子はお母さんの妹を義理の母として育てられます。

ゴータマ・シッダールタは、そういう境遇にお育ちであったためか、深く物思いに耽る青春を送ったようです。



これは釈尊がまだ出家する前に妻のヤショーダラー(耶輸陀羅)との光景を描いたもののようです。


ゴータマ・シッダールタはヤショーダラー姫と16歳の時に結婚したといわれています。

ヤショーダラー(耶輸陀羅)とは、”誉れある人” という意味ですが、他の名であったという説もあります。



お釈迦様がまだゴータマ・シッダールタ王子時代の ” 四門出遊 ” の時の光景です。


父であるスッドーダナ(浄飯王)の居城には東西南北にそれぞれ門があり、これが重要な意味を持ちます。



四門出遊により王子は「老・病・死」という 根源的な問い に悩み、後に家族も身分も捨てるのです。


王子はそれぞれの門から出て、釈迦族の暮らしぶりを見たのですが、これを ”四門出遊” といいます。



四門出遊の時の像のお顔はインド系 (アーリア系とも蒙古系ともいわれている) の顔になっています。


四門出遊があったればこそ、今日我々のところへまで仏教の教えが届いているのです。



四門出遊時のアップです。ゴータマ・シッダールタは人間の ” 苦 ( ドゥフカ ) ” というものを見たのです。


釈尊はお悟りを開かれた後に ” 人生は苦なり ” と説かれますが、その原点ではないでしょうか。

” ドゥフカ ” という意味は、”思い通りにならない” という意味で、それを ”苦” と訳したのです。

ですから私達が日常生活の中で苦と捉えるものとは、意味合いが違うことをご承知おきください。



四苦八苦とは


四苦とは、”生苦”、”老苦”、”病苦”、”死苦”です。 通常は ”生老病死 ” といいます。

加えて”愛別離苦”、”怨憎会苦”、”求不得苦”、そして”五薀盛苦”の四苦があります。

注意: ”五薀盛苦”につきましては ” 五取薀苦(ごしゅうんく) ” という場合もあります。


初めの根本の四苦と、それに次ぐ四苦を合わせて八苦となります。それで 四苦八苦 となるのです。




四門出遊で 東門 から出た時にゴータマ・シッダールタ (後の釈尊)年老いた人 を見ます。





そして 南門 から出た時は 病気 に苦しむ人を見るのです。





さらに 西門 から出たゴータマ・シッダールタは 死人 を見ます。





そして 北門 から出た時には 出家者 の姿を見るのです。自分の着るもの以外何も持たない人をです。


財産もなく、地位もなく、持つものといえば己の着るものだけ。しかし瞳は澄んで顔は明るかったのです。



その後悩みぬいたゴータマ・シッダールタは、妻子も身分も捨てて城を出る決断をします。


当時の掟では出家することにより妻子が路頭に迷うようなことであれば、出家は処罰の対象でした。



その時、愛馬カンタカに乗り蹄の音をさせないように夜叉に馬の脚を支えさせながら城を出ます。


ゴータマ・シッダールタが城を出て修行者としての道を選ぶと決断したのは、彼が29歳の時でした。



ゴータマ・シッダールタが出城を決意し実行に移した感動的な場面です。


何故夜叉が蹄を支えているかといえば、馬の蹄の音がしないようにして出城を気づかれないためです。



仏教徒にとっては大変重要な場面ですが、ここから ゴータマ・シッダールタの苦行の道 が始まるのです。


城を出たゴータマ・シッダールタは愛馬カンタカと馬丁に別れを告げ厳しい修行の道へと進みます。



カンボジアにある アンコール・ワット遺跡群 の一つである タ・プローム寺院 の写真をご覧ください。


岩がごろごろしていまして、フランス人によって発見された時には、地震で倒壊したものと考えられていました。



タ・プローム寺院 を取り巻く巨大な木の根です。大自然の脅威を感じさせられます。


その後カンボジアには地震がないということで、長年の間に倒壊した部分があるとわかりました。



その タ・プローム寺院 に何かの彫り物が見えてきました。これは何でしょうか。





そのアップです。 ゴータマ・シッダールタが城を出る 場面が彫られています。





ゴータマ・シッダールタ が、またがる愛馬カンタカの足を夜叉が支えている光景です。


タイのお寺のゴータマ・シッダールタの出城と同じ光景がアンコール・ワット遺跡群の中にもあるのです。



これでクメール文明の中にも、 ゴータマ・シッダールタの出城 の場面が伝わっていたことがわかります。





これもカンボジアのニアック・ポアン遺跡にあった、 ゴータマ・シッダールタの出城 の場面です。


写真ではわかりにくいのですが、東南アジアにも確実に釈迦出城の様子が伝わっていたことがわかります。




シッダールタ太子はのちにこう回想している


「人々は自分も老い、病に苦しみ、死んでいくのに、それについて深く考えようともしない。

わたしは不老、不病、不死の無常の安穏であるニルバーナ(涅槃)を求めたいとおもった」

地図とあらすじで読む『ブッダの教え』 高瀬広居著 P.18 2005年8月25日 青春出版社



立っているのはゴータマ・シッダールタです。三人の女性の姿をした悪魔に彼は修行を妨げられます。


シッダールタはアーラーラ仙人やウッダカ仙人を訪ね教えを請うたのですが、満足することはできませんでした。



修行中のゴータマ・シッダールタの前には 悪魔 (心の内面) が修行を捨てなさいと彼を悩ますのです。





沢山の仏像の手前は、苦行する釈迦像です。





この写真はバンコクにある ワット・ベンチャマボピット(大理石寺院)にある釈迦苦行像です。


この像の元になった像は、パキスタン・イスラム共和国のラーホール美術館にあります。



ワット・ベンチャマボピットの釈迦苦行像を正面から眺めたものです。


ゴータマ・シッダールタは苦行の中から道を求めることはできないと悟り、苦行捨てたといわれています。

しかし他説によれば、ゴータマ・シッダールタは苦行の末、 お悟りを開かれたとするものもあるようです。


パキスタンのラホール美術館にある釈迦苦行像です。 <A href="http://wadaphoto.jp/" target="right">Wa☆Daフォトギャラリー様 のご好意により掲載しています。

Wa☆Daフォトギャラリー  丹下誠司氏撮影



瞑想する仏陀像のお顔のアップです。この写真も <A href="http://wadaphoto.jp/" target="right">Wa☆Daフォトギャラリー様 のご好意で掲載しています。


Wa☆Daフォトギャラリー  丹下誠司氏撮影



沢山の釈迦像を別の角度から眺めたところです。





このように境内のいたるところに仏塔や仏像が安置されています。


そしてお悟りを得て仏陀となられたのは釈尊35歳の時だったと伝えられています。



仏像の後ろに屋根の尖ったインドのサルナートにあるダーメク・ストゥーパに似せて作った建物が見えます。


苦行を捨てたシッダールタは、ニランジャー河(尼蓮禅河)の畔で土地の娘スジャータから乳粥を貰います。



屋根の尖った建物には、タイ語で「説法をしている」と書かれています。


スジャータから喜捨された乳粥で生気を取り戻したシッダールタは、程なく悟りをお開きになられます。



この建物の中には仏教徒にとっては、大変重要な光景の像が安置されていました。


悟りを得たシッダールタは仏陀(悟った人)となり、釈迦族の尊い人ということで釈尊とも呼ばれます。



仏陀には "仏" の字が使われていますので仏教用語のように思えますが、仏教用語ではありません。



仏歴2554年(2011年)の10月に行った時撮った写真です。鹿の姿が見えています。


シッダールタが悟ったところは、ヒンドゥー教の聖地ガヤーの近くでしたから、そこを ブッダガヤー と呼ぶのです。



その建物の中の様子ですが、 釈尊の初転法輪 の様子の像がありました。


初転法輪等に関する記述や映像は、関係するところで重複記載されていますので、ご承知おきください。



釈尊がお悟りをお開きになり、梵天勧請により五人の修行者に初めて教えを説く 初転法輪 の様子です。






梵天勧請と初転法輪


ゴータマ・シッダールタは悟りを得て仏陀となった後、自分が悟ったことを他の人に説いても理解され

ないだろうと考えます。その結果釈尊は悟りを語ろうとしませんでした。そこへ現れたのが当時インド

の最高神といわれていた ” 梵天 ” です。 梵天は仏陀に己の悟りを説くことを勧めます。これを ” 梵

天勧請 ”
といい、 梵天勧請により仏陀が初めて己の悟りを説いたのを ” 初転法輪 ” と呼びます。



梵天勧請により初めて教えを説いた 初転法輪 は伝説ですが、仏教徒にとっては重要なことです。




初転法輪 の様子を位置を変えて撮ったところです。これから仏教が世界宗教への歩みを始めるのです。


そして釈尊の教えが東南アジアや支那・朝鮮半島、そして日本へと伝わり苦悩する人々を救うのです。



初転法輪 の時の釈尊のお姿のアップです。


お釈迦様在世の時代には教えは文字化されませんでした。 ですから釈尊の教えは、弟子から弟子へと口伝によって引き

継がれていきました。 その後既にあった文字から
結集(けつじゅう) という釈尊の教えを文字化する作業が数回に渡って

行われるという時を迎えるのです。 ですから今日、 釈尊の教えが私たちのところまで辿り着いていることは、 まさに「初転

法輪」があり釈尊から聞いたままをそのまま伝えた修行者達の偉業もあったのです。 仏教徒にとっては重要な場面です。


注: お釈迦様ご在世の時代には、既にジャイナ経典やマハーバーラタ等の典籍はありました。ですから、

尊い釈尊の教えて文字化して俗物としないために、文字化しなかったといった方がいいのかも知れません。



釈尊の教えというものは、明確なものではありませんでしたので、主観が入っており、原典には違いがあるようです。



釈尊が教えを説いたのは”対機説法”といわれる方法でです。相手の”機(個人の資質とか能力)”

に応じて法を説いたのであって、いわゆる教義に基づいて教えを説いたのではありませんでした。



上記の説明文等は関連するページで重複していますので、ご承知置きください。 浅学菲才の身を省みず書いています。



この初転法輪から釈尊の教えが世界宗教となる ”仏教” としての力強い歩みを始めるのです。


中央に写っている丸いものを ”法輪” といい、仏教のシンボルとされています。



法輪は輪廻の理法を表わすものでもありますが、ここでは力強い仏法の歩みをも象徴しています。





こちらはワット・パイロン・ウアの本堂に描かれていた初転法輪の壁画です。





これもワット・パイロン・ウアの本堂に描かれていた初転法輪の壁画です。





こちらにも形を変えた初転法輪の壁画がありました。


五人の修行者というのは、釈尊の父スッドーダナ(浄飯王)が彼の身を案じて遣わしたバラモン達でした。



釈尊が偉大な仕事を終え、 涅槃 につかれる時の壁画です。釈尊の両側に立つ木は 娑羅双樹 です。


釈尊の死は、 「涅槃」 とか 「涅槃にお入りになった」 または 「ご入滅」 といい、亡くなったとはいいません。



釈尊が偉大なる、なすべきことを終えて 「ご入滅なさった」 ところは、 ここ をクリックしてご覧ください。




タイにありますワット・プラ・ノン・チャクシー・ウォーラウィファーンにある釈尊のご一生の絵をご覧ください。


マーヤー夫人がゴータマ・シッダールタを身ごもる時に、夫人は白象が自分の胎内に入る夢を見ます。



これがミャンマーのヤンゴンで大切に飼われている吉祥とされる白象です。


ヤンゴンにあるロイヤル・ホワイト・エレファント・ガーデンで大切に飼われている二頭の白象です。



こちらは普通の象です。確かに色が異なりますね。





この象はカンボジアのアンコール遺跡群の内のバケン山で見た黒い皮膚の象です。





そしてルンビニーの苑でゴータマ・シッダールタはご誕生なされるのです。サーラの花が描かれています。


この寺の絵は、ガンダーラ様式で描かれていました。これはタイでは珍しいです。



そしてゴータマ・シッダールタは王子として、王家の一族に見守られ大切に育てられます。


ゴータマ・シッダールタを抱いているのが、父であるスッドーダナ(浄飯王)です。



生まれてすぐに実母を亡くされたゴータマ・シッダールタは若いころから思索を重ねる青年でした。


浄飯王(ゴータマ・シッダールタの父)は実母の妹マハー・パジャーパティー(摩訶波闍波提)を後妻に迎えます。

養母であるマハージャーパティーは、後に釈尊の女性初の信者となり、厳しい条件を付けて、出家を許された。



そしてゴータマ・シッダールタはヤショーダラー姫(耶輸陀羅)と16歳の時に結婚なされます。


ヤショーダラー姫(耶輸陀羅)という名前には、他の名であったという説もあります。

シッダールタ太子には、 ほかにマノーダラとゴーパーの二人の妃がいたようです。



その後ゴータマ・シッダールタは四門出遊で老・病・死、そして出家者に出逢います。





出城を決意したシッダールタが、宮廷の中の女たちが、ぐっすりと寝込んでいるところを確認している場面です。


宮廷の女たちというのは、シッダールタ太子が出家しないように、父親の意向で仕えさせた者たちです。



妻のヤショーダラーと子供がぐっすりと眠っているところも確認します。そして無言の別れを告げるのです。


しかし仏陀となられた後で、釈尊が別れを告げた実子は、弟子の羅尊者(ラーフラ)として再会します。

ラーフラとは、「障礙(さまたげ)」という意味です。子供はシッダールタの出城の決心を妨げたのです。



そして愛馬カンタカと馬丁のチャンナを伴って、周囲に気付かれないように城を出ます。


ゴータマ・シッダールタは王子という身分も妻子も捨てて、出家者としての修行の道を突き進むのです。



残されたヤショーダラー(耶輸陀羅)や子供、そして父スッドーダナ(浄飯王)や、育ての

母のマハー・パジャーパティー(摩訶波闍波提)は、彼のことをどう思ったのでしょうか。

しかしゴータマ・仏陀の実子である羅尊者(ラーフラ)は後に釈尊の弟子となるのです。



ゴータマ・シッダールタは瞑想にふけります。





しかしここでも 悪魔(ナムチ) たちがゴータマ・シッダールタの修行を邪魔するのです。





そして 悪魔(ナムチ) たちが一斉にゴータマ・シッダールタの修行の前に立ちはだかります。





悪魔 (ナムチ) たちがゴータマ・シッダールタの修業を妨げようと次々と襲い掛るのです。


悪魔とは実在の有形のものではありません。己の心の内面に潜むものです。



ゴータマ・シッダールタ自身の心の中には悪魔 ( 葛藤 ) が潜んでいたのです。





そして厳しい苦行のため体はやつれ、シッダールタは 苦行からは悟りを得られない と悟るのです。


一緒に修業をしていた浄飯王が遣わした5人の修行者たちは、苦行を捨てたシッダールタから去って行きます。





仏教最古の世界 『 スッタニパータ 』


苦行中のゴータマ・仏陀に悪魔ナムチ(心の内面)が近づき、やさしい言葉をかけた時のやりとり。


あなたは痩せて、顔色も悪い。 今にも死にそうである。 あなたの生きられる見込みは死ぬ見込みの千分の一にすぎ

ない。生きるのです。禁欲生活を送り、祭火に供養してこそ、あなたは多くの功徳を積むことができるのです。 [ あな

たがしているような ] 修業に精を出してなんになりましょう。修業の道は、進みにくく、なし難く、到達し難いものです。



この悪魔の囁きを、ブッダは拒絶し、肉体が衰えても心は澄み、智慧や調和のとれた心

は、 一層確固たるものになっていることを表明し、 つづけて次のように悪魔に答える。



お前の第一の軍勢は欲望であり、 第二の軍勢は嫌悪で、 第三の軍勢は飢悪で、 第

四の軍勢は妄執と呼ばれる。 おまえの第五の軍勢は心が暗く沈んでいることであり、

り、第六の軍勢は恐怖で、第七の軍勢は疑惑で、第八の軍勢は偽善と強欲さである。



さらに、不正で得た利得、名声、尊敬、 名誉、 また自らを賛美し他を蔑むのである。 ナムチよ、 これらこそ

がおまえの黒き悪魔の軍勢であり、人々を攻撃するのである。勇者でなければ、これに打つ勝ことができな

い。打ち勝てば、案楽を得ることができる。この私は [ 降参しなない意志表示のために ] ムンジャ草を身に

付けよう。この命とは何とわずらわしいことか、私は破れて生き延びるぐらいなら、死んだほうがましである。



ブッダは信念をもって悪魔に強く語りかけた。悪魔は七年間もブッダに付きまと

ったが、まったく入りこむ隙間もないので、うんざりして、ブッダから手を引くと言

って、その場から消え去ったが、と説かれている。 このように、ブッダの生涯で

有名な降魔伝説が『スッターパータ』で説かれていることに留意しておきたい。


『 スッタニパータ 』 仏教最古の世界 P.177〜178 著者:並川孝儀 岩波書店 2008.12.18発行




『 スッタニパータ 』 の「スッタ」とは「たて糸、経」「ニパータ」は「集まり、集成」という

意味です。したがって 『 スッタニパータ 』 とは「経の集成」という意味になります。


『 スッタニパータ 』さわやかに、生きる、死ぬ P.7 著者:羽矢辰夫 NHK出版2007.1. 25発行



『 スッタニパータ 』 が読まれるにともない、 ゴータマ・ブッダその人に対する関心が高まっ

てきています。我が国の宗派よりも、仏教そのものの原点を知りたいと思う人々が増えてき

ているように感じます。仏教の原点とは、ゴータマ・ブッダのことです。神話的存在としてのゴ

ータマ・ブッダではなく、歴史的存在としてのゴータマ・ブッダが何を考え、どのようにして行

動したか、ということを知りたいと思えば、『 スッタニパータ 』 は不可欠な資料といえます。


『 スッタニパータ 』さわやかに、生きる、死ぬ P.8 著者:羽矢辰夫 NHK出版2007.1. 25発行



ネーランジャナー河(尼蓮禅河)の畔でスジャータから乳粥を喜捨され、程なくお悟りを開かれ 仏陀 となられます。


仏教最古の世界 『 スッタニパータ 』 には、何人かの仏陀がいた と書かれていますが、教団維持

の中から、 何人もいた仏陀の中から、特に秀でた 「 ゴータマ・仏陀 」 一人に定まったようです。



世尊よ、みごとにお説になったこの教えは奥深く、安楽をもたらすものです。 それを皆

は聞きたがっているのです。どうぞお説きください。ブッダたちの中で最もすぐれた方


『 スッタニパータ 』 仏教最古の世界 P.081 著者:並川孝儀 岩波書店 2008.12.18発行




ゴータマ・シッダールタは、いつ悟ってブッダとなったのか


カピラヴァスツの宮殿から出家して六年。三五歳の誕生日にあたる紀元前四二八年(中村元説)、 インド暦ヴァイシャーカ月

(四月中旬〜五月中旬)の満月の夜、成道(ボーディ・さとり)のときはやってきた。ブッダ(真理に目覚めた者)の誕生である。


南方の仏教国では誕生・成道・入滅の日はすべて同じヴァイシャーカ月の満月の日としているが、 日本では成道は十二月二八

日に祝われる。ヴァイシャーカ月はインドの暦では第二番目の月にあたるので、漢訳仏典では「二月八日」としるされることが多

く、中国の周時代以来の暦法で陰暦十一月が第一の月にあたることから、第二の八日はすなわち十二月八日ということになる。

地図とあらすじで読む『ブッダの教え』 高瀬広居著 P.24 青春出版社 2005.8.25発行




釈尊は何を悟ったのか


さて、 ブッダのさとりの内容はさまざまに伝えられているが、ひとことでいえば、 <縁起の法>ということになる。 この世にあるものはすべ

て、因と縁がかかわりあって果が生じる、という真理だ。だれが考え出してつくったものでもなく、この宇宙に常に存在いる理法なのである。

地図とあらすじで読む『ブッダの教え』 高瀬広居著 P.24 青春出版社 2005.8.25発行




こうしてゴータマ・シッダールタは35歳にしてお悟りを開かれ 仏陀(覚者) となられたのです。


仏陀には釈尊の他、いろいろな呼び名がありまして、釈迦牟尼とか釈迦牟尼仏とお呼びする場合もあります。



日本にまで仏陀の教えが届いています。これには後の世にお出ましになった高僧方のご苦労もあったのです。


" 仏陀 " とは仏の字が付きますので仏教用語のようですが、そもそも " 仏陀 " とは仏教用語ではないのです。



そして鍛冶屋のチュンダから喜捨された食べ物で体調を崩され、涅槃 へお入りになりました。80歳でした。


チュンダからの施しで病に伏した原因は豚肉だったという説と、毒キノコだったとする説があります。


このようにタイのお寺には、釈尊のご一生を描いた壁画や絵が方々にあります。




ミャンマーのインレー湖畔にあるファウンドーウー・パヤーにある釈尊ご一生の壁画です


インレー湖側から眺めたファウンドーウー・パヤーの全景です。


境内へ入る時には靴から靴下まで脱がなければなりませんが、境内はタイル張りでしたので助かりました。



マーヤ夫人(釈尊の母)がゴータマ・シッダールタを身ごもる時に、白象が胎内へ入る夢をみる光景です。


ミャンマーのお寺にもタイの壁画と全く同じ伝説が伝わっていることがわかります。



ゴータマ・シッダールタご誕生の光景です。横の木の枝を持つ女性が母親であるマーヤー夫人です。





四門出遊の光景になります。ここでゴータマ・シッダールタは老・病・死そして僧侶をみます。


左から僧侶・中央にゴータマ・シッダールタと従者、そして老人、病人、死人をみるのです。

四門出遊で老・病・死そして僧侶を見るという描き方ではなく一枚の絵で描かれています。



ゴータマ・シッダールタが出家の決心をして城を出る光景が描かれています。





そして城を出て、髪を剃り、馬丁のチャンナと愛馬カンタカと別れを告げ城へ帰します。


城を出たシッダールタは、夜明けにマイネーヤまで行き、髪を切り装身具の一切を馬丁に渡し城へ帰します。



この光景は上と同じ場面です。これはバガン遺跡のアーナンダー寺院の回廊にあったものです。





ここからゴータマ・シッダールタの苦行が始まるのです





ゴータマ・シッダールタの苦行する尊いお姿です。鹿の姿もみえます。





しかしその苦行に立ちはだかる悪魔(心の内面)たちです。





瞑想中のゴータマ・シッダールタとナーガです。





修行中のゴータマ・シッダールタに食べ物を喜捨し徳を積む在家の人々です。


ゴータマ・シッダールタのご修行には、在家の人々の徳を積む尊い行いも忘れることはできません。



そしてお悟りを開き仏陀となり、梵天勧請の後に5人の修行者に初めて法を説く光景です。


これを ” 初転法輪 ” といいます。 釈尊の悟りとは ” 縁起の理法 ” と呼ばれるものです。



ここは霊鷲山でしょうか。多くの修行者に法を説く釈尊のお姿です。





そしてなすことをなして涅槃に入られた光景です。





釈尊が涅槃に入られたことを悲しむ人々と、娑羅双樹の花弁が舞う光景です。





インレー湖畔にあるガーベー僧院にあった上と似たようなお像ですが、足の形から寝釈迦像だと思います。




このように南伝仏教のミャンマーにも我々の北伝仏教と同じような釈尊のご一生が伝わっています。




死の恐れを超えるために


この人生は実に短い。 百歳にならずに死んでしまう。それを超えて生きようとしても、老衰の

ために死んでしまう。人々は「わたしのもの」と思うもののために嘆き悲しむ。 所有物はいつ

までもはないからである。 これは必ずなくなるものであると見て、 在家に(留まって)いるべ

きではない。 「わたしのもの」と考えるものは、何であれ、死によって失われる。 わたしに従

う賢者は、 そのように知って「わたしのもの」という思いに傾いてはならない。 夢で会った人

を、目覚めてから見ることができないように、愛された人でも、亡くなれば[だれも]会えない。

[かっては]見られ、聞かれた人々も、死んでしまえば、呼び名が残って語られるだけである。



死に終わるわたしたちの生の痛ましい現実が、 正面から鋭く見すえられています。 『スッタニ

パータ』 には、このようななまなましい描写が多く見られます。 ただ、わたしたちは、 ここに説

かれていることをよく了解しています。 この人生は実に短く、 百歳にならずに死んでしまうこと

も、 どんな人であっても、死ねば会えなくなることも、よく知っています。 また、このように死に

についても了解したからといって、何かが解決されるわけでもないことも知っています。むしろ、

深刻な問題がそから生じてくることを感じて、心底ふるえあがります。そして、なるべくその深み

をのぞかないようにします。視線を変えて、死とは逆の生が現に与えられているのであるから、

これを大切にして精一杯生きよう、 それこそがわたしたちの人生の意味である、 と考えます。



わたしたちは「わたしのもの」と考えるものが死によって失われることを知っています。所有物はいつま

でも留まってはいない、ということも知っています。これでも 「わたしのもの」 に強く執着し、それらが失

われると嘆き悲しみます。ここに説かれているとおりです。 なるべく嘆きや悲しみ見ないようにします。

『 スッタニパータ 』 仏教最古の世界 P.90〜92 著者:並川孝儀 岩波書店 2008.12.18発行




大乗経典-----新たに聞きとられた仏陀の教説


仏陀ゴータマの教説は、入滅直後の結集(教説と律の確認編纂)によって、阿含経典として伝承

されてきた。滅後百年には教団が二つに分裂し、それぞれに第二回目の結集が行われ、さらに

その後も分裂を続け、二十もの部派に分裂していった。それらの部派は、原則として、それぞれ

の阿含経典と律とを伝承している。したがって、二十にも及ぶ異なった伝承が存在したことにな

る。 しかしいずれの部派も、 結集によって成立した阿含経典と律とを伝承してきたのである。



後一世紀ころ、このような結集伝承によらない経典が出現した。阿含経典と同じ形式をもって「如

是我聞」から始まる仏陀ゴータマの教説である。この後もずっとそのような経典が生まれてつづけ

ていったということは、 それを仏陀ゴータマの教説として受け入れていた多くの人々がいたことを

意味する。他方、それは仏説ではないとして批判する者たちもまた現れたのは当然のことである。

この結集伝承によらず新たに出現した経典は、やがて 「 大乗経典 」 と呼ばれていくことになる。

『教行信証』の思想 P.206〜207 大谷大学真宗総合研究所編 筑摩書房 2011.8.25 発行




これがタイの沙羅双樹の木です。これは国によって異なります。木の下部は枝が一杯です。


娑羅双樹の木の花は釈尊がお生まれになった時と、涅槃にお入りになられた時に咲いたといわれています。



タイの沙羅双樹の木を少し離れて撮影したものです。





タイの沙羅双樹は大変大きく育つ木です。これらの沙羅双樹の写真は大理石寺院で撮影したものです。


大理石寺院は正式にはワット・ベンチャマボピットと呼ばれ、バンコクのチットダラー宮殿の近くにあります。



これがタイの沙羅双樹の花です。





ちょっと日本ではみられない花の形をしています。





タイの沙羅双樹の花弁の様子です。





和名を「ホウガンボク」といいますが、花の咲いた後に砲丸そっくりな実が成ります。





黄色に輝くのはハスの蕾を模したのもです。





建物の近景です。何となくイスラム寺院を連想させますが、お寺ですからハスの蕾です。





様々な建物建つ境内です。境内はとにかく広いです。





建物の中の仏像と大仏様のお姿です。





丸く囲まれた中に合掌する像が幾体もあります。





ハスの蕾のある建物の全景はこんな様子です。





広い境内には、いろいろな建物があります。とにかく境内は広いです。





丸い屋根の建物の近景です。





やっと普通に見られるタイらしい建物に出会いました。





別の建物の中には四つの座像が並びます。





同じ建物の中の仏像を位置を変えて撮ったものです。





これもまた位置を変えて撮ったものです。





座像の周りを回りながら撮っています。





境内にはこのような黒い仏像もありました。





ちょっと近づいてみました。工事中のようで、上部から鉄筋が出ているのが建物を支える柱です。





撮る位置を変えるとこんな感じになります。





黒い仏像を横から眺めたところです。右側に工事中の柱が見えます。





アップして撮ったものです。仏像が大きい時には、先に仏像を造っておいてからお堂を建てます。





像を向かって右寄りから撮ったところです。





近づくと厳しい目つきのようにもみえます。左側に工事中の柱がみえます。





黒い仏像の左寄りです。沢山の鐘が吊り下げられており、自由に叩くことができます。





屋根の下に並ぶ仏像です。これらのワット・パイロン・ウアの仏に祈ってくださいと書かれています。





別の建物の中に前後に並ぶ二つの仏像です。タイではよくある荘厳の形式です。





バンコクにあるワット・インドラウィハーンの本堂の荘厳の様子です。二つどころではありません。


タイでは本堂に二体以上の仏像がある荘厳形式は決して珍しいことではありません。



この写真は京都二尊院の本堂に安置される、釈迦如来と阿弥陀如来の二尊が並ぶお姿です。





黒い像の後ろ側です。タイのお寺にも梵鐘がありますが、まだその音を聞いたことはありません。





境内には夥しい数の仏像があるのですが、動物の像もあります。





小さなお堂の前に仏像が並び、その後ろに動物の像が並びます。





中央には餌を飲み込んだようなコブラの像もあります。





境内の木陰で小僧さんたちが学んでいました。ここでは、お坊様の了解を得て撮影しています。





お坊様は携帯用の拡声器を使ってお話になっていました。





どんな勉強をしているのでしょうか。





感受性豊かな幼い頃からの正しい宗教教育ほど大事なものはありません。タイの子供達は幸せです。





木陰で一生懸命勉強です。





境内にあった古いお堂です。





そのお堂の出入り口の扉の様子です。





建物の側面の窓に描かれた絵ですが、釈尊が出家を決意したとされる場面です。





これにより釈迦の苦行が始まり、後に悟りを開いて仏教が今日我々のところまで辿り着いているのです。





他のお堂の内部です。床にいろいろ置かれているところなどは、如何にもタイらしいです。



ワット・パイロン・ウア1をご覧いただきました。



続けて ワット・パイロン・ウア2 をご覧ください。